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北山杉・北山丸太とは

京都府の木

北山杉とは、京都市北部から産する杉です。細く美しい材を目的として生産される木です。天に向かってまっすぐのびる姿は、"伸びゆく京都"のシンボルとして京都府の木に制定されています。

国会議事堂の衆参両議院の庭には、全国の「都道府県の木」が植樹されており、そこには「京都府の木」として北山杉が植えられています。1966年、北山杉は「京都府の木」に制定されました。

北山杉とは?

北山杉

北山丸太の原木である北山杉は、室町時代(1394~1427頃)から植林されたと言われ、約600年にわたって育林技術及び加工技術が培われてきました。京都市の北西部、北区中川を中心とした北山地方及びその周辺で植林され、4年毎の度重なる枝打ちや、間伐等の手入れを施し、約30~50年間育てます。北山杉の特徴としては、真直ぐに育ちその年輪は緻密で、皮をむいたその木肌は非常に滑らかで独特の優美な色艶があります。

北山丸太

北山丸太

北山丸太は北山杉の皮を剥き、干割れが起こらないように時間をかけて乾燥させます。さらに木肌を磨いて、仕上げます。北山丸太は銘木として江戸時代にはすでに全国的に知られた存在となっていたようで、北山丸太を使用して建築された京都市にある桂離宮や修学院離宮の茶室、島原角屋などは数寄屋造りの代表的建築物として知られています。北山丸太の代表的な種類として北山磨丸太、天然出絞丸太、人造絞丸太などがあります。

※北山丸太協同生産組合 参考ホームページ http://kyotokitayamamaruta.com/

この北山丸太は、和風住宅の化粧用材として用いられます。しかし、和風住宅の減少でその使用量が激減しており、利用促進や用途の新開発が必要になっています。

北山丸太ができるまで

北山丸太ができるまで 北山丸太ができるまで 北山丸太ができるまで

北山杉には、台杉仕立てと一代限りの皆伐方式の2通りの方法が行われています。一代限りの皆伐方式とは、一般の杉樹と同様に一樹一幹で育て25~40年生ぐらいで一斉に伐倒する方法です。一方、台杉仕立は一株から数十本の樹幹を萌生させる方法です。森林の狭さを補い、急峻な山で効率よく生産するため編み出された恒続的な造林方法です。

北山丸太ができるまで 北山丸太ができるまで

まず「取り木」と呼ばれる台をつくり、枝を垂直に伸ばして「立ち木」に仕立てます。そして、「取り木」となる裾の枝をと、「立ち木」の穂先に樹冠を残すのみで大部分は打ち落とします。その後、「立ち木」の上部の成長した部分の枝打ちを繰り返して、適寸になっとところで伐採します。
第一回の伐採後は、「取り木」の中から直立する枝で素性の良いものを2~3本「立ち木」に仕立て、適宜伐採します。これを100~200年にわたって繰り返し、磨丸太を生産します。

磨き丸太の歴史

磨き丸太として、室町時代から茶室や数寄屋に重用されました。特に、京都市街の西北約20kmに位置する、現在の京都市北区中川地域や隣接する梅ヶ畑庄(現在の京都市右京区高雄)は北山杉の産地として栄え、京都御所に産物を献上する「供御人」としての地位を授かって古来より磨き丸太類の生産、販売を行っています。

北山杉

室町時代、この磨き丸太は千利休により完成された「茶の湯」文化を支える茶室や数奇屋の建築用材として頻繁に用いられるようになりました。その代表が桂離宮や修学院離宮です。江戸時代から明治時代にかけて、磨き丸太は京都市内はもちろん関西一円に販売されていたといわれています。

第二次世界大戦後、吉田五十八や篠原一男らをはじめとする著名な建築家たちによる近代数奇屋建築が華々しく登場するなか、この磨き丸太の需要は絶頂に達することとなりました。近代数奇屋建築ブームに乗って、京都府の京北町、八木町、日吉町にまで磨き丸太育林が波及したのもこの頃です。
このような背景の中で中川を中心に高雄、鷹峯、小野郷を含めた地域からの丸太は「地山丸太」、京北町等からの丸太は「丹波物」と呼ばれるようになりました。